「幸せになる勇気」岸見一郎・古賀史健著

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

本書のキーワードは、「自立=自己中心からの脱却」「愛」「共同体感覚」であろう。

前作の「嫌われる勇気」と本書を仏教に例えれば、前作が小乗仏教で、本書が大乗仏教であろうか。D・カーネギーに例えれば、前作が「道は開ける」で、本書が「人を動かす」だろう。「7つの習慣」に例えれば、前作・本書とも実践していない状態が「依存」で、前作を実践できている状態が「自立」で、本書を実践できている状態が、「相互依存」だろう。

正直なところ、本書は、実践することだけでなく、読み進めるのも容易でなかった。ストーリー展開(という用語が適切か別にして)についていくのが難しかった。何度も読み返して、噛みしめないといけないのだろう。

「道路の日本史」武部健一著

書名どおり、古代から現代に至る日本の「道路」の歴史を描く。

著者は高速道路建設に携わっていたが、東名高速道路建設時に、鎌倉〜江戸時代でなく、なぜか古代の遺跡が発掘されたと言う。古代律令制下の道路と現代の高速道路が同じ経路を通り、近世の街道と国道が同じ経路を通るという事実である。後者が地域性と便利性に基づきつくられたのに対し、前者は計画性と直進性に基づきつくられたからだと言う。
また、峠を越える道について、戦いという意味で安全なのが尾根沿いで、危険なのが沢沿いだと言う。そして、箱根超えの道について、江戸以前は尾根沿いだったが、江戸時代に、平和なのを反映し、沢沿いになったと言う。

上記は本書に描かれたエピソードのほんの一例だが、もっと「道路」に注目して歴史を見れば、おもしろいだろうと思った。

インフラ投資是非は、冷静に議論すべし

本書を読んで、「公共事業は無駄だからやるべきでない」という考え方は、単なるステレオタイプの考え方であり、我が国も、まだまだインフラ投資が必要であることが分かった。また、東京一極集中になったのは、インフラ投資が東京に集中しているからであり、どの地方が成長したかしなかったかを決めたのも、インフラ投資次第だった、という記述は説得力があった。東京の出生率が低く、待機児童が多いことを考えると、地方へのインフラ投資がまだまだ必要なのかもしれない。一方で、「四大交流圏のため、新幹線をどんどんつくるべき」「GDPが伸びるなら、プライマリーバランスを気にする必要なし」という記述には、賛成できなかった。いずれにせよ、「インフラ投資はすべて無駄」「どんどんやるべき」という両極端に陥ることなく、現実を冷静に直視し、本当に必要なインフラを整備するというのが正解なのだろう。

ソクラテスは頑固な屁理屈親父

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

本書前半の「ソクラテスの弁明」では、ソクラテスは、ああ言えばこう言い、人の上げ足をとって矛盾をさらけだす等をするだけという印象である。ロジックを鍛えるために本書を勧める本があったが、ソクラテスの態度を私は好きになれない。ソクラテスだけがこうだったのか、あるいは西洋哲学の考え方として、今の時代にも息づいているのか。後者だとすると、私は世界では戦えないのだろう。


愛智者として生き自己ならびに他人を吟味することを、死もしくはその他の危険の恐怖のために抛棄したとすれば、私の行動は奇怪しごくというべきであろう。

ただし、上記引用のとおり、智を愛するという気持ちは、ものすごいものであり、尊重すべきであろう。



また、本書後半の「クリトン」では、脱獄の勧めを拒否するのは、頑固ではあるが、首尾一貫していると言える。その解説は、山岡龍一氏の「西洋政治理論の伝統」より引用させて頂く。

法体系があるおかげでわたしたちは、さまざまな権利を守られるという仕方で、利益を享受することができます。端的に言えば、自由になれるのです。このような自由は、その法体系に属するメンバーが、その法に従うことで、保障されます。

ポリスの決定に対する、いわば絶対的な服従を説くソクラテスの主張が、自由の論理に基礎づけられている

文字通り、命を賭けて自由を守ったということだろう。その「自由」に内容は、現在のそれとは違うものだろうが。

西洋政治理論の伝統 (放送大学教材)

西洋政治理論の伝統 (放送大学教材)

AIによって労働が不要になると・・・古代ギリシアから考える

AIの進化によって、近い将来、労働需要が奪われることが危惧されている。しかし、古代ギリシア人の「市民」たちは、労働を奴隷たちに任せ、哲学の議論に終始したという。同じように、労働をAIに任せ、人間たちは高踏な議論に集中できる、夢のような時代が来るかもしれない。しかし・・・

古典期には農業以外の生産労働、すなわち商業や手工業は市民にふさわしい労働ではない、という考え方が普及し、プラトンアリストテレスにいたっては、市民は農業にも携わるべきではない、と考えている。生産労働には奴隷を用いるべきだ、というわけである。・・・奴隷が多用されるにしたがって自由人のあいだで労働を蔑視する傾向が強くなったものと考えられる。


古代ギリシアは、上記の時代を経て終焉を迎えることを考えると、やはり人間は働かないといけないのだろう。

「ギリシア人の物語Ⅰ民主政のはじまり」塩野七生著

ギリシア人の物語I 民主政のはじまり

ギリシア人の物語I 民主政のはじまり

とてもおもしろかった!

ギリシアの歴史について、これまで読んだ本は、政治制度と戦争と哲学が、お互いにどのような歴史の流れで動いたのかがよく理解できなかったが、本書でよく理解できた。アテネの歴史を「ソロン、ペイシストラトスクレイステネステミストクレスペリクレスという五人が、バトンタッチをつづけながら走るリレー競技」と述べる文章を読んで、流れがよく分かるようになった。「僭主」「民主」等とロジックだけで物事を語るのでなく、個々の人間の言動をドラマチックに描くことで、歴史に息吹が吹き込まれている。そして、ペルシア戦争のくだりは、迫力満点である。

次巻以降で、どのような時代背景でソクラテス等の思想家が現れたのか、読めることを期待している。

そして、女性労働に関する、濱口氏と金子氏のやりとりを見ていると、どちらが良い悪いの問題でなく、物事を「個々の人間の言動」で描くのか、「ロジック」で描くのかの違いであると感じた。

「働く女子の運命」濱口桂一郎著

本書の特徴は徹頭徹尾日本型雇用という補助線を引いて、そこから論じたところにあります。・・・ですから、女性論としてはここが足りない、あれも欠けているという批判はいっぱいいただくと思われますが、他書には乏しいその付加価値のところを批評いただければというのが著者の願いです。

上記はあとがきの文章である。本書を読んでいる途中で、メンバーシップ型/ジョブ型のことばかり書いてあって、社会福祉とか家族のありかたに触れていないではないかと一人で突っ込みを入れていたが、この文章で、本書のテーマは、「日本型雇用システムの中で苦しむ総合職女性」なのだと納得した。


第1章で、高度成長期までの女性労働の歴史が述べられている。私にとっては、知らないことが多く、大変勉強になったが、本書の全体の流れからすると、削除可能だと思う。
第2章で、日本に職能給が定着していく歴史が述べられている。賃金のベースが能力なのか生活給なのかの議論に紙面が割かれている。しかし本書の趣旨からすると、男性の労使双方(=ともにメンバーを構成)にとって、職能給が望ましかったということであり、現在の総合職女性の苦しみに関しては、どちらでも関係ないことだろう。初めて濱口氏の本を読む人でなければ、斜め読みでよい部分である。


そして、第3章以降で、女性総合職が登場し、現在に至る歴史が述べられている。ここからが本書の肝である。

女性正社員にも男性正社員と同様の「コース」をたどって昇進昇格していく機会を与えること、それが、日本型雇用礼讃時代の真ん中で進められた男女平等政策が取ることができた唯一の細道であったのです。

このあと女性労働問題の焦点は、全人格的に企業のために働くという要請と、にもかかわらず主として女性にかかり続ける家事負担、とりわけ出産後の育児負担との矛盾に当てられていくことになります。

総合職女性が「育休世代のジレンマ」に悩み、その周囲の人々が「悶える職場」が、こうして生み出され続けることになります。

まさにこういうことだと思う。総合職女性が苦しむ背景を、改めて整理できる一書である。



日本型雇用システム(メンバーシップ型)が変わらないままだと、体力のある企業は、社内託児所・学童施設を設けたり、ベビーシッター・家事代行サービスにかかる負担を援助したりすることで、総合職女性を「男性化」していくだろう。以前私はこのブログで、「女性活躍」の議論が、日本型雇用システムへの最後の一撃になると書いたが、その予想は外れたようだ。そうではない道を歩みたいのなら、社会福祉や家族のありかたに手をつけないと、あるいは全く別の観点から手をつけていかないと、何も変わらないと思う。