「維摩経講話」鎌田茂雄 サラリーマンの仏教

維摩経講話 (講談社学術文庫)

維摩経講話 (講談社学術文庫)

在家者である維摩が出家者の菩薩・声聞、ブッダの弟子たちを相手に説法をする物語である。在家の人たちから見れば、痛快ではある。しかし在家者が出家者をやっつけることは、維摩経の本質ではないと思う。



本書で著者は、維摩経を「サラリーマンの仏教」と表現するが、まさにそうだと思った。

どんなに心の中に塵垢がなくなっても、さまざまな世俗の事の真只中に生きなければならない。たんなる逃避の坐禅ではなく、人々とともにこの汚濁の真只中で生きる坐禅でなければ、死んだ坐禅に過ぎないと(維摩は)喝破する。


本当の悟りを得た人には、婬、怒、痴の性がそのまま解脱である・・・


この現実の人生には浄らかな生活もあるが、大部分は垢に満ちている。汚濁に満ちている。このように汚濁の人生のなかで鍛えられてこそ、人間の光は増す。貪欲の世界に生きてこそ、染着のむなしさを知る。汚泥の中に咲く蓮華こそ本当の名花なのである。仏法は煩悩、汚濁なくしては生じない。煩悩、汚濁にそのまま流されてゆくのは仏法ではないが、煩悩、汚濁がなければ仏法も生じない。仏法とはどこまでも煩悩、汚濁の真只中にあって咲き匂う蓮華なのである。


これらの文章を読むと、道元の言葉も思い出される。

正法眼蔵(三)全訳注 (講談社学術文庫)

正法眼蔵(三)全訳注 (講談社学術文庫)

また、大悟も片手であり、迷いもまた片手ではないか、その二つがあって、はじめて両手が揃うと考えてみることもできる。とするならば、大悟した人にも、どうしても迷いがあるのだと・・・大悟というものは、迷いをいよいよ親しみ深いものにしてくれるものだと判ってくる。

日々の生活の中で、悩み、苦しみ、頑張ってこそ、悟りを開くことができるのだろう。そして、悟りを開いた後は、何も悩みのない清らかな状態になるのではなく、「悩み、苦しみ、頑張りながら、悟りを開く」ことを続けていくのだろう。




そして、維摩経では「不二法門」として、あらゆる分別・二項対立を否定する。

われわれは、生と死、善と悪、是と非、美と醜、長と短など、すべて相い対立する概念を立てて、この二つは絶対に一つにならないと思いこんでいる。ところが、維摩経では、これらの対立するものを不二とみる。


どこまでも矛盾であり、どこまでも矛盾でない、そこに不二がある。

最初に「サラリーマンの仏教」と言ったが、現場で頑張る人が偉くて、高踏的な人が偉くない、などと言う必要もない。悩み、苦しみ、頑張っている人が、悟りを開くのだろう。



そして、「不二法門」は、言葉では分かるが、日常生活の中で体感するのは、相当難しそうだ。これを体感できれば、まさに悟ったと言えるだろう。「不二法門」「大悟」の心境に至るよう、精進していきたい。