デカルトについて

本年最初に読んだ本はこれだ。諸賢からすれば、「何を今さら」ということかもしれないが、本年は、根源に遡って考察すべく、古典と呼ばれるものを沢山読もうと、決意した。

方法序説 (岩波文庫)

方法序説 (岩波文庫)

現代の合理的な思考方法の権化であろう、との先入観を持って読み始めたが、その先入観は裏切られなかった。

(考えを誤ったり、夢の中で目覚めている時と同じ思考をしたりすることがあるという話の後で)このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する[ワレ惟ウ、故ニワレ存リ]というこの真理は、・・・哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。

この合理的な思考、主体と客体の二元論は、良くも悪くも、近代世界を規定してきたと言えるだろう。そして、賢者が果てしなく深い考察をした末に、「自分と宇宙は一体」といった発想に至らなかったのは、それはそれで興味深い。しかし、その後、以下本を読んだら、デカルトに対する印象が変わった。


デカルト (岩波新書)

デカルト (岩波新書)

一方自己が世界を客観的に見据える科学的知性を行使するとともに、他方その自己はそういう世界の中で自由に意志的に決断する、という知性的客観性と意志的主体性の二元論であります。・・・知性的実践と道徳的実践とが同一の主体において緊張を生む・・・

そして、上記のことをデカルトが考えていたとすると、まさに現代の問題にまで思考を及ぼしていたということになる。デカルトには、般若心経あたりを読んで、感想を述べてほしいものだ。