法然に学ぶエリートのありかた

日本の仏教 (岩波新書)

日本の仏教 (岩波新書)

およそ仏教が仏教としての本質を見失わない以上は、一つの厳然たる基準がある。それは人間が人間的実践によって人間の理想を実現することである。これを・・・菩提といい、この理想を求める意欲を・・・菩提心という。

ここに書かれていることは、人間としてやるべきことと思うし、ましてや仏教を信仰する者は、やるべきことだろう。にもかかわらず、浄土宗・浄土真宗では、力も知識もない民衆に寄り添うという趣旨は大変理解できるものの、「ただ念仏を唱えよ」と言っていることが、理解できずにいた。
しかし、以下の本を読んで、納得できた。

仏教発見! (講談社現代新書)

仏教発見! (講談社現代新書)

全国良寛会の会長だった小島寅雄さんと対談した時、小島さんが言った。「智者のふるまいをせずと言っても、智者でなければそういう振舞いはできない。すべてを捨ててと言っても、捨てるものがなければ捨てられない。だから智者であることは必要なんです。法然がそうでしょう。」「なるほど」と私は思った。
小島さんが言われたように、法然は間違いなく「智者」であった。逆説的だが、智者であるがゆえに智者のふるまいをせずということが可能になるのである。
民芸運動を始めた柳宗悦さんは書いている。「あらゆる知識は、慈悲になって外に出ないといけない」。法然は、まさに「あらゆる知識が慈悲になって外に出る」生涯を送った人だと思う。私たちも、生涯かけて学び、その知識を慈悲に転じて生き切ることを、及ばずながらも目指すべきではないだろうか。

法然の慈悲は、究極の慈悲とも言えるし、究極の(全くいやらしさのない意味で)エリート主義とも言える。一般民衆は念仏を唱えれば済むが、僧たる者は、知識をつけ、さらにそれを慈悲に転じよということだ。これで、念仏と菩提心の関係が分かった。また、エリートたる者、あるいは自分の行動・発言が社会に影響を及ぼす人たちは、「生涯かけて学び、その知識を慈悲に転じて生き切る」ことが必要だと思った。